世界遺産「平泉」! 「平泉の文化遺産」の5つの構成資産を紹介!
おばんですryoです!
奥州藤原氏によって平安時代後期の約100年間治められていた「平泉」。金や馬の産地として栄華を極めていたその都は、京に匹敵するほどだったと言われています。争いのない理想の世界を目指し、この世に浄土を作り出そうとした奥州藤原氏の浄土思想が、平泉の都に反映され多くの寺院建築群が軒を連ねていました。
ご存知の方も多いかと思いますが、そんな「平泉の文化遺産」は2011年6月にパリで行われた第35回世界遺産委員会において世界文化遺産に登録されました。日本の世界遺産の中で12番目に登録された文化遺産であり、東北初の世界文化遺産でもあります。
平泉がなぜ世界遺産なのか、それには下記のような特徴が挙げられる。
- 平泉には、仏教の中でも、特に浄土思想の考え方に基づいて造られた多様な寺院・庭園が、一群としてよく残っている。
- 寺院や庭園は、この世に理想世界を創り出そうとしたもので、海外からの影響を受けつつ日本で独自の発展を遂げたものである。
- 平泉の理想世界の表現は、他に例の無いものとされている。
平和な世界の実現を目指した奥州藤原氏の浄土思想は、現存する寺院・庭園や景観に色濃く残り、継承されています。それらの文化資産は、後世まで大切にしていかなければならない貴重なものです。
そんな「平泉の文化遺産」は、現在5つの構成資産によって構成されているのをご存知ですか? 今日はその5つの構成資産を紹介していきます!
中尊寺

平泉の文化遺産の中で最も知名度が高いと思われるのが「中尊寺」ではないでしょうか? 奥州藤原氏の黄金文化の象徴とも言える「金色堂」がある中尊寺は、お正月の初詣はもちろん、年間を通して多くの方々が訪れます。
中尊寺は、850年に比叡山延暦寺の「慈覚大師円仁」によって開かれた天台宗東北大本山の寺院です。12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔造営が行われ、鎌倉時代に記された「吾妻鏡」によると全盛期には400以上の堂塔、300以上の僧坊があったとされています。
清衡公による中尊寺建立は、11世紀後半に東北地方で相次いだ戦乱などにより亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方なく慰め、「みちのく」といわれ、辺境とされた東北地方に、仏国土と呼ばれる仏の教えによる平和な理想社会を建設するとの思いによるものです。
「五月雨の振り残してや光堂」この俳句は松尾芭蕉が中尊寺金色堂を訪れた際に残した有名なもので、聞いたことがある方も多いのではないでしょうか? 中尊寺創建当初からその姿を残す金色堂は、堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂です。堂内には平安時代後期の工芸技術が結集され、お堂でありながらその様相は工芸品のような美しさがあります。須弥壇には、初代清衡公、二代基衡公、三代秀衡公のご遺体と四代泰衡公のおみくび首級が納められている。金色堂に安置されてなお、奥州藤原氏の平和への想いは続いているのではないでしょうか?
毛越寺

平泉の文化遺産の中で中尊寺と同じくらいの知名度を誇っているのが「毛越寺」です。こちらも中尊寺同様、例年年間を通して多くの方々が訪れています。
毛越寺は、中尊寺と同じく850年に慈覚大師円仁によって開かれたと伝わります。後に二代基衡公が造営に着手し、三代秀衡公の時に完成しました。往時には40堂塔500僧坊があったとされ、その規模は中尊寺をしのぐとも伝わるほど絢爛だったとされています。その当時あった建物は度重なる火災によって全て消失してしまったが、平安時代の伽藍遺構などがほぼ完全な状態で保存されており、全国でも9例しかない「特別史跡」と「特別名勝」の二重指定を受けている。
そんな毛越寺の見所はなんといっても大泉が池を中心に作庭された美しい浄土庭園です。庭園の作者は不明ながら、平安時代の庭園造りの秘伝書「作庭記」に沿った庭園であり、まさに浄土を連想させるような美しいを持っている。池の周りには「常行堂」なども建っており、美しい浄土庭園をゆっくり散策できるようになっています。

観自在王院跡

毛越寺の山門から歩いてすぐの場所に広がる美しい庭園。「観自在王院跡」は、藤原氏二代基衡公の妻によって建立されたとされる寺院の跡です。
中心にある舞鶴池の北側に大小それぞれの阿弥陀堂が建っていたとされることから、極楽浄土を表した浄土庭園とされている。ほぼ完全な状態で残っている浄土庭園の遺構は、毛越寺の浄土庭園と同じく日本最古の庭園書である「作庭記」の作法通りとされます。また、阿弥陀堂の内壁には石清水八幡宮、賀茂の祭、宇治平等院など当時首都であった京都の霊地各所が描かれていたそうです。
遺跡発掘調査を基に伽藍遺構と庭園の復元・整備が行われ、現在は史跡公園として甦り、過去の情景を今に伝える美しい庭園を眺めることができます。また、毎年5月4日には観音自在王院跡において、基衡公の妻を供養する「哭き祭り」という奇祭も行われている。
毛越寺参拝後に訪れるのにもピッタリの場所です。
無量光院跡

平泉駅から近い場所に広がる「無量光院跡」。三代秀衡公が宇治にある「平等院鳳凰堂」を模して建立した寺院跡です。調査の結果によれば、平等院よりも一回り大きく造られたされています。
院の正面に立つと、橋・中島・橋・本堂が一直線に並び、その先は同じく構成資産一つである「金鶏山」と結ばれており、寺院の造りにもこだわりがみられました。現在、建物は消失してしまい礎石だけが残されているが、美しい庭園が広がっています。また、夕方に金鶏山を望む形で立つと山並みに夕日が沈んでいき、夕日に染め上げられるその光景は目を見張るほど美しいです。
当時はそこに壮大な寺院が加わっていたと考えるとその光景は絶景だったと思います。そんな当時の光景を想像しながら無量光院跡を眺めるのも1つの楽しみ方なのかもしれません。
金鶏山

中尊寺と毛越寺のほぼ中間に位置する「金鶏山」は、比高差60mほどの円錐形の山です。
山頂からは平泉を見渡すことができたことから、平泉の中心とされていたと考えられる。また、毛越寺付近は金鶏山から南に延ばした子午線を基準に造られ、前述の通り無量光院も金鶏山を背にする位置に建てらたことから基準とされる山でもありました。
そんな金鶏山には、「平泉を守るため黄金の鶏を埋めた」、「北上川まで人夫を並べ、一晩で築いた山」などの伝説が残されています。これらの伝説は山頂に建てられた経塚から派生したものと考えられ、初代清衡公から四代泰衡公までの間に9基の経塚が建てられたそうです。
それだけ金鶏山は平泉にとって重要な存在だったのではないでしょうか。金鶏山は平泉の象徴として今なおその雄麗な姿を残しています。